昨日は妹と色々話しましたが、やはり母が「ネコもおじさんも死んで寂しいらしく『ヤバイ』」という話になりました。
うん、たまに母に用があって電話すると「庭の草取りに命を懸けている」みたいなことを言って怖い。
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私や妹が来ると張り切って料理を作って持たせてくれます。
私はめったに行かないので何もらってもありがたいのですが、妹は家が近く。トンカツばかりもらって困っているらしい。妹は年を取って油ものが体質的にダメになったのに、バカの一つ覚えのようにトンカツをくれるようです。妹の家は余って冷凍庫にトンカツだらけらしい。
多分母の頭の中は「揚げ物は子供が喜ぶ」し「他のを考えるのが面倒」と思われる。
あと作る量が大量←この辺は禄存星らしい・・・。もう20年くらいは一人暮らしなのにとんでもない量を作る。田舎とはいえなんで直径50センチくらいもある鍋があるのか。

昨日も「煮物作って、トンカツ揚げて・・・」というので
「ちょっと待って!たまにはトンカツ変えようよ。揚げ物でもなにか別のものでもいいじゃない?」と提案してみました。「じゃあ何がいい?」というのでここは交渉してエビや野菜の天ぷらにした。

「あとそんな多く作らなくたっていいよ」というと
「だって足りなかったら困るじゃない。余るくらいじゃないと・・・・」(禄存星中殺の母)
「食べ物は少なめで『ああ、もう少し欲しかった・・・』くらいが一番美味しいから。余ったものはみんななかなか食べないから」(鳳閣星中殺の娘)というやりとりが。


しかーし、「私が沢山作るとみんなが嫌がるから・・・」みたいにいうのでせっせとご機嫌修復に努めたのですが(これが私の本職)、その時
「私はみんなに喜んでもらいたいのよ~~~!!」
と叫んでいました。心の叫びだ・・・

人は程度の差はあれ人と関わり合って生きていきたいと思うんだね、って妹とも話していました。
どんな悩みのタネだろうが情けない人物だろうが、身内だったり一緒に住んでいたりすると情があるもの。憎いというのも情ですね。そんなもの捨てればいいだろうと頭ではわかっていても長年抱えているひとのなんて多いことか。
人と人とのやり取りは確かに大きい。

特に母のような人は「満足」や「幸せ」のようなものが「自分内」で製造できない。
家内制手工業は無理なのだなと思う(ある程度できるタイプの人もいる。私はそのタイプ)。人など生き物(?)とのやり取りがないとダメなのです。たとえどんな取引でも。
母には元気でやってもらいたい。もっと人と触れ合えるような環境にあればまた違うのに田舎過ぎる。移動手段も限られる。
いっそのこと元気なうちに入れる老人ホームみたいなところの方がいいんじゃね?とか思ったり・・・
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そんなところに同じ禄存星の翡翠先生の記事が「性分でんねん」

一種の貧乏性。あれこれ動いて、人から必要とされたい。じっとして、だれからも必要とされないのなら、生きていてもしかたがないと思ってしまいます」

これってうちの母もまったく同じ・・・
心のまま本当にずっと動いているんです。

翡翠先生のように自分を見越して準備ができれば素晴らしいと思います(ご本人はネコになりたいという葛藤がありまくりのようですが)。

冷たいが母の人生は母の人生だしなあ。
たまに電話して、休みには小夏を送り込んで用事を増やしてやるくらいが私の仕事でしょうか。