今日は算命学の研究会でした。それぞれ自由なテーマでデータを集めたり考察したりして発表する、みたいな感じです。
人それぞれ着眼点が違うので面白くためになるのです。
今回私は大運や年運が実際どのように影響するのか、を自分の家族をもとに検証してみました。思ったより如実に出てびっくりしました。
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今回は母に聞いて過去のデータをあれこれ出してきました。色々思い出したのでちょっと書いてみようと思います。
ちょっと重い昔話なのでご興味のあるかただけどうぞ。


私が中学校3年の時の話。祖父母と父母と妹の6人家族だったころの話。

高校受験の前、1月終わりか2月を過ぎたころだったと思う。
親から仕事がうまくいかなくなって、今住んでいる家も土地も人のものになる、まだ大丈夫だけど何があるか分からないから子供たちは叔母(父の妹)の家に住まわせてもらうように、と聞かされた。
私と妹は突然家を出て叔母の家に住むことになった。叔母は後妻さんになったばかりで、御主人と小学校高学年の男の子二人(向こうの連れ子)とおじいさんがいた。親戚になったばかりとはいえとてもよくしてくれた。きっと可哀想に思ったのだろう。
今までの中学校の学区ではなかったが隣の町だったので自転車でかよった。
この家で夜、皆が寝たあとに受験勉強していた記憶がある。こんなで高校に行けるのか?と思ったが成績も良かったし皆行けと言ったのだと思う。

この年はよく雪が降っていたが、高校の合格発表の日も大雪が降っていた。先生が見てきてくれて合格と聞いて本当にほっとした。
受けたのは公立1本だったし、ここで落ちたらみんながどんなに悲しむかと思っていた。
この時期どんな気持ちだったか実はあまり覚えていないのだけどこの日のことは覚えている。降ってくる雪を見ながら泣きながら帰った。

そのあと突然叔母の家を出なければならなくなった。その家のおばあさんは入院していたのだけど亡くなってしまい、葬式だの何だのを家でやることになったからだ。

なので次は母の実家にいくことになった。今度は父と母も一緒だった。農家だったので野良器具をおく物置の上の2階に住んでいた。
そこにいるのが関係者にバレると困るらしく隠れて住んでいた。窓は明かりが漏れないように紙を貼って塞いでいた。
母方の祖父は父を怒っていたので住むのを嫌がっていたということもあり、食べ物に困った記憶あり。冷凍庫にミックスベジタブルがあったのでそれをフライパンで炒めて塩コショウして妹と二人で食べたのが思い出だ。

結局そこはすぐ追い出されたらしく、次はやはり母の親戚の家に間借りした。
奥さんが出ていってしまい、残った御主人と成人した息子が住んでいる、というお宅だったが 何しろ汚かった。ほこりだらけだし、住人の部屋は万年床で布団の回りの畳が腐って来ているほどだった。
一番辛いのはトイレだった。汲み取りのボットン便所だったが汲み取りをずっと入れてなくて入るとすぐそこに汚物が見えるという(>o<")
年頃の娘にはどうしても嫌だった。駅が近かったので何度も駅のトイレまで行った。

その頃はその家に祖父も合流して一緒に居候していたが、よく父と大喧嘩で怒鳴りあっていた。自分も春休みで学校もないし1日いるし頭がわんわん鳴るように辛かった。住まわせてやっている方も知らない家族が突然自分の家に住んで迷惑だろう、早く出ていけと言ってきた。

母から「ここは温泉場だからどこかの旅館に住み込みで働こうか。あんたも学校から帰ったら働くけど」と聞かされ、何でもいい、それでもいいと思った。

そのあと話がどう動いたのかはさっぱりわからないが、小さな借家だけどもとの家族6人で住めることになった。それはそれで決していい生活ではなかったが、人の家に寄生するよりはましだった。
高校入学するころはその家に住めた。


中学3年の頃、今思うと浮いていてあまり友達がいなかったが、えり子という子とよく話をしていた。
えり子の家はその辺では有名な建設会社で大きなビルに住んでいたけど、うちより少し前に倒産してしまった。
えり子はお兄さんと二人で親戚の家に預けられ、親は借金取りから逃げて全国をあちこち移動していたようだった。どこにいるかは言わず、たまーに子供のところに電話をかけてくると言っていた。あの頃はそういう話がよくあったのだろうか。

えり子は進学はできないので、美容院に住み込みして美容師さんになるといっていた。

卒業のとき連絡先を聞いとけばよかったと思うけど、自分もそれところではなく、卒業以来一切会ったことはない。

えり子はどうしているだろうか。今はどこかで幸せに暮らしているのだろうか。あのあとどうなったんだろうか。
30数年経った今でもえり子のことは忘れることはない。